臨界感覚
─福田恆存
IAGO: For I am nothing if not
critical.
William Shakespeare “Othello the Moor of 
 小林秀雄の登場以来、これまでその時代を代表する文芸批評家が現われております。それは主張やスタイルがモードとして時代とシンクロした現象だと言えますまいか。一九八〇年代は柄谷行人=蓮実重彦が支配的な批評家でしたし、七〇年代には山口昌男が影響力があり、六〇年代のスターは吉本隆明であります。占領が終わり、戦後体制が形成されてきた一九五〇年代に流行した文芸批評家は花田清輝と福田恆存です。
 「戦後、ぼくが学生の頃の評論の二大スターは福田恆存と花田清輝でした」と言い、森毅は、『ゆきあたりばったり文学談義』において、D・H・ロレンスに関する卒論を書いた東京大学英文学科の卒業者について次のように述べております。
 福田恆存は、あとでずいぶん右寄りみたいに言われますが、あの人は戦争中をわりにリベラルに生きて、そのことで逆に戦後は左翼嫌いになるんです。そのためにちょっと突っ張り過ぎたようなところがありました。戦後、福田さんの『平衡感覚』(昭二十二)という評論集が出ましたが、ぼくは、福田恆存をずっと読んでいるわけではなく、『芸術とはなにか』(昭二十五)とか。『人間・この劇的なるもの』(昭三十〜三十一)ぐらいまでしか読んでないんです。福田さんはわりに目配りの利いた、バランスで生きた人だと思います。福田恆存を評価する人には、右寄りの評論家が多いんですが、右よりの評論家ってどうしてみんなバランス感覚が悪いのと、常々、不思議に思っています。
 評論家はみんなそれぞれに時代を背負うわけです。花田・福田の時代、福田はむやみに右寄りみたいに思われて、彼自身もそういうところへ行ってしまったせいもありますが、とらえられ方が限定されました。
 花田清輝が左派、福田恆存が右派の論客という素朴な区別は彼らの批評を「限定」するだけであります。彼らは、たんに自分自身の志向や信念に基づいていたのではなく、言論界における役割を演じていたと言えましょう。特に、福田恆存は保守派から読まれることが多く、「バランス」を欠いて扱われています。ところが、両者とも「わりに目配りの利いた、バランスで生きた人」であります。
 「ずいぶん右寄りみたい」に言われてからも、よく見ると、この京都産業大学教授は「バランス」で生きています。彼は『平和論に対する疑問』を書いて左派を批判した後、『防衞論に対する疑問』によって右派を叩いています。また、右に転向した清水幾太郎や猪木正道を論駁して、保守派から攻撃されています。「右か左か」のような短絡的な二項対立で福田恆存を捉えることは適切ではありますまい。
 この国語問題協議会常任理事は、『近代日本文学の系譜』において、当時主流だった近代文学派に対して次のように批判しています。
 現代文学の薄弱さは、いかに生くべきかという人生根本の問題に面をそむけていることにあるという非難はいちおう首肯できる。が、その非難がやはり作品の側において、その作品に向けてなされている点に、またこの非難も実を結ばずに終わるのではないかという懸念をもたざるをえない。むしろ、僕は、人生いかに生くべきかに表面無関心な作家の態度が、実は明治以来あまりにこの疑問に熱しすぎた精神主義の伝統に忠実であったためにほかならぬことを強調したいのであり、いわば、この文章に関するかぎり、そこに僕の意図があったといってさしつかえない。が、それもすでに明らかであろう。すべては「実行と芸術」との素朴な混同に胚胎している。いかに生くべきかは、たんに芸術のうえの問題でもなければ、芸術家のみの責任に委ねられた問題でもない。この疑問のまえには、政治家も、農民も、労働者も、知識階級も、すべてが同列に対処せねばならぬのであり、これを芸術家独尊の、あるいは芸術のみがもっとも正しき解答を与えうる問題と考えたところに禍いのもとがあった。なぜならば、この懐疑を芸術家のみに委せきったところに──いや、己一人に委せられたと解釈したところに、近代日本の芸術概念は一種の独善に陥ったからである。
 これは演劇的認識に基づいております。役者が評価されるのはその演戯であって、「人生いかに生くべきか」は二の次です。花田清輝にしろ、福田恆存にしろ、演劇と深い関係を持った批評家であります。両者とも戯曲を書いていますし、後者に至っては、『シェイクスピア全集』を翻訳して、その上、文学座や雲など劇団運営に関与しております。「今だと、文学少年っぽくたって、戯曲にまでは手を出しません。第一、戯曲は誰も読まないし、しかも売れない。しかし、以前は戯曲というものの存在が、一つの文化圏を持っていたようです。みんなシェイクスピアなんかをけっこう読んでいたわけです。今でもシェイクスピアを教養的に読むことはあるかもしれませんが。でも今、戯曲を読むという人は、演劇少年、演劇少女に限られてしまっています」(『ゆきあたりばったり文学談義』)。しかも、現在、ブロードウェイを筆頭に、芝居と言えば、ミュージカルです。アーサー・ミラーもテネシー・ウィリアムズもエドワード・オールビーもお呼びではないのです。花田=福田の時代は演劇の時代であり、彼らの「バランス」はこの演劇への意志が可能にしていると言えましょう。「芝居の目指すところは、昔も今も自然に対して、いわば鏡を向けて、正しいものは正しい姿に、愚かなものは愚かな形のままに映しだして、生きた時代の本質をありのままに示すことだ」(ウィリアム・シェークスピア『ハムレット』)。
 現代演劇協会理事長は、『人間・この劇的なるもの』において、「劇は究極において倫理的でなければならない。元来は、それは宗教的なものであった。その本質は、今日もなお失われてはならぬ」と言い、さらに、シェークスピアの四大悲劇のうちで、「もっとも純粋な悲劇」として『マクベス』を挙げております。と申しますのも、「マクベスは自由でありえた。それにもかかわらず、かれは自分の宿命を探りあて、性急にそれに到達しようとあがく」のがその一因だからであります。
 すでにいったように、私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。そういえば、誤解をまねくであろうが、こういったらわかってもらえるであろうか。私たちは自己の宿命のうちあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌刺さを味わえるのだ。自己が居るべきところに居るという実感、宿命感とはそういうものである。それは、なにも大仰な悲劇性を意味しない。宿命などというものは、ごく単純なものだ。
(『人間・この劇的なるもの』)
 スコットランドの将軍マクベスは、フォレス近くの荒野で、友人の将軍バンンクォーと共に、三人の魔女に出会い、自分が王になるという予言を聞きます。彼自身は半信半疑だったのですが、野心家の妻に押されてれ、城に立ち寄ったスコットランド王ダンカンを殺害します。魔女の予言通り、スコットランド王となったマクベスは、自分の権力をさらに強固なものにするため、魔女の予言を再度仰ぎ、殺戮を重ねるのですが、その罪の意識に苛まされて、精神の平衡感覚を失い、自滅へと向かい始めるのです。マクベス夫人も精神が錯乱し、狂死してしまいます。そうしている間に、父がマクベスによって殺されたことを知った王子マルカムは貴族を集め、マクベス打倒に立ち上がります。女から生まれたものに敗れることはないという魔女の予言を信念にマクベスは動じません。けれども、城は難攻不落だという魔女の予言を完全には信じきれず、マクベスは城から出て戦闘を挑み、月足らずで母親の腹を裂いて出てきたマクダフに討ちとられるのです。
 予言にはマクベスが王になるとしても、国王を殺さなければならないのか、国王を殺さなくともいずれは国王になれるのかどうかは明らかではありません。マクベスもそれを承知しております。が、妻の後押しもあって、彼はダンカン王を殺害して、後釜に座ってしまうのです。
 予言はそもそもが曖昧なものであります。第一幕第一場の魔女のセリフでそのとりようによってどうとでも解釈できる性質が予言されておるのです。
ALL: Fair is foul, and foul is
fair:
 福田恆存は「きれいは汚い、汚いはきれい」、小田島雄志は「いいは悪いで悪いはいい」と訳しておりますが、”fair”と”foul”にはいずれの意味もあります。予言は意味の平衡状態にある言葉で、それをある心理的状況に置かれた人物が解釈し始めた途端、臨界に達してしまうのです。確かに、予言では、”fair”は“foul”であり、“foul”は“fair”であります。
 こうした曖昧さは予言に囚われた人物を主人公にしたこの作品の至るところに見られます。第五幕第五場におけるマクベスが夫人の死を聞いて語る劇中で最も有名な次のセリフにもそれがあるのです。
SEYTON: The queen, my lord, is
dead.
MACBETH: She should have died
hereafter;
There would have been a time
for such a word-
Tomorrow, and tomorrow, and
tomorrow,
Creeps in this petty pace from
day to day
To the last syllable of
recorded time,
And all our yesterdays have
lighted fools
The way to dusty death. Out,
out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a
poor player
That struts and frets his hour
upon the stage
And then is heard no more: it
is a tale
Told by an idiot, full of sound
and fury,
Signifying nothing.
 この最後の”sound and fury”は、ウィリアム・フォークナーの革新的な小説『響きと怒り(The Sound and the Fury)』(一九二九)のタイトルに使われております。コンプソン家の悲劇的没落を三部構成で描いているのですが、各章が三人の人物それぞれの独白であり、三つの異なる視点で語られた事実が提示されています。中でも、第一章は知的障害者の口を通して話されており、断片的な印象を受けます。この構造は作者が追求していく意欲的な語りの技法の先駆けであります。
 “There would have been a time
for such a word”は仮定法過去完了であり、「将来」や「来世」の意味を持つ”hereafter”は”tomorrow”の類義語である以上、マクベスのこの言葉はマクベス夫人の死について語られたのか、それとも自分自身のその後に続く言葉に対して言及されたのかというように、どちらにかかるのかはっきりしません。もちろん、”hereafter”に”tomorrow”とも予言にかかわっていることは言うまでもありますまい。
 福田恆存はここを次のように翻訳しております。
シートン は、お妃様が、お亡くなりあそばして。
マクベス あれも、いつかは死なねはならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。あすが来、あすが去り、そうして一日一日と小きざみに、時の階を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の灯!人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、わめいたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、かやがやわやわや、すさまじいはかり、何の取りとめもありはせぬ。
 福田恆存の翻訳ではマクベスの言葉は死への意識に重点が置かれております。心理的に追いつめられたマクベスが自己劇化している光景が目に浮かびます。福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』の中で、「マクベスだけが、しかも劇中たえず自己を演出しつづけたマクベスだけが、私たちのまえに自己の死を演出することを禁じられている。死にたいして、もっとも意識であったかれだけが、自分の死を眺めることができないのだ」と指摘しております。彼は『マクベス』をモチーフに戯曲『明智光秀』を書いていまが、そこではこの点がより強調されております。「生はかならず死によってのみ正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにそういうふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生きつづけるだろう」(『人間・この劇的なるもの』)。この「自己」の「演出」をめぐる認識が福田恆存の傾向を示しているのであります。
 訳を比較することによって、その翻訳者の心理的傾向が明らかになります。『ジュリアス・シーザー』の"Speak, hands, for
me!" を福田恆存は「この手に聞け!」と訳していますが、坪内逍遥か「もう……この上は……腕ずくだ!」と歌舞伎のように和訳しておりますし、中野好夫は「こうなれば、腕に物を言わせるのだ!」としております。福田恆存の翻訳は自己劇化の色彩が強いのです。仲代達也や平幹二郎が手をかざしている姿が思い起こされます。
 芥川龍之介の『藪の中』をめぐって行われた中村光夫との論争もその傾向を表わしております。
 中村光夫は、『「藪の中」から』において、そのモチーフになったアンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnetf
Bierce)の『月あかりの道(The Moonlight Road)』と比較し、『藪の中』の構成上ならびに認識上の欠陥を次のように指摘しています。
 これ(=『月あかりの道』)に反して『藪の中』はそれぞれ前の陳述を否定する性格のものであり、結局、夫の死は他殺か自殺かという疑問に解決があたえられないし、他殺なら犯人は誰かもわからず仕舞いです。
 これでは活字の向うに人生が見えるような印象を読者に与えることはできないのではないでしょうか。
 ある事実に三つの面から異った解釈を与えるのは、それを人の三倍考えぬく事ですが、 一つの「事件」について事実が三つあるのは、考えの整理がつかぬという事です。
 中村光夫に対して、福田恆存は、『「藪の中」について』において、一つの「事件」について「三つの事実」ではなく、「三つの心理的事実」があるのであって、この「三つの心理的事実」の向こう側に「一つの事実」があると反論しております。
 とうしても「事実」というものが必要なら、それはこういう風に考えられないか。既に書いた様に多襄丸は女を犯した後、その残虐な興奮状態から、武弘を刺して逃げ去った。
 だが、武弘はそれだけでは死に切れなかった。そして互いに不信感をもった夫婦が後に残され、妻は心中を、夫は自殺を欲した。そういう両者が小刀を奪い合い絡み合ううちに、夫は多襄丸の負わせた深手によって死んだ。両者の話の食い違いは、一方は嫉妬、他方は絶望という興奮から生じた自己劇化にほかならない。両者に自殺したい、共に死にたいという欲求が潜んでいる事は言うまでもない。その欲求があればこそ、自分を主役に仕立てたいという自己劇化が成り立つ。これは単なる牽強附会とは言えまい。今日の裁判においても、過度に自分を悪者に仕立てた自白があり、またその自白を覆して過度に自分の潔白に陶酔する事が屡々起り得る。
 武弘とその妻だけではない。多襄丸が男の縄を解き二十三合斬り結んだ後に、相手を倒したというのも、唯単に罪科を軽くしようという積りだけではなく、明かに自己劇化の一種と考えられる。
 以上の様に考えれば、中村氏の言う様に「事実」が三つあるとは言い切れなくなる様に思う。
 『藪の中』を考察することとは別にして、両者の見解の相違はそれぞれの文学観が反映されており、興味深く、素朴にどちらが妥当かと判断すべきではありません。中村光夫は一つの「事件」に三つの「事実」があると言い、福田恆存はそうではなく、「三つの心理的事実」があると主張しています。前者が三つの証言を照らし合わせても、一つの「事実」が浮かび上がってこないと批判するのに対し、後者は心理的屈折があるのだから、それを形成できるはずもないと考えているのであります。かのフランス文学者は言葉、われらが英文学者は演戯に焦点を当てているのです。
 事実は相対的であります。見方によって、一つの「事実」が異なった印象を与えることがしばしば起きます。福田恆存は登場人物の証言に「自己劇化」によるすりかえを見ています。「事実」の食い違いをもたらしたのは告白を通じた「自己劇化」だというわけです。「自我は自分と他人という相対的平面のほかに、その両者を含めて、自他を超えた絶対の世界とかかわりをもっているのである。それは、すでにいったように、見えぬ未来という形で私たちの前に現れる。あるいは知らなかった過去として蘇る。のみならず、他人はつねに自分によって見られつくしているものでもなく、自分もまた他人によって、自分自身によって、知りつくされているものでもない。そうして、未知のあんこくにとりかこまれていればこそ、自我は枠をもち、確立しうるのだ。その枠のないところでは、自我は茫漠として解体する」(『人間・この劇的なるもの』)。
 福田恆存は脚色自身を非難しているわけではありません。むしろ、演戯には肯定的です。彼は、『藝術とは何か』において、「私小説家たちの求めているものは、生活の迫真性であって、それは断じて藝術の迫真性ではない。演戯の迫真性は、それが演戯であるかぎりにおいてみごとなのであり、生活の迫真性にまでなれば、一種の堕落であります。生活の迫真性などというものはくだらない」と言っています。小説家は、告白する際、そこに自己劇化をしてしまうのであり、その「演戯の迫真性」によって評価されるのであって、「生活の迫真性」から判断されるべきではないのです。
 脚色が否定されたのでは、そもそも演劇は成り立ちません。シェークスピアは英国史劇を書く際、『ホリンシェッドの年代記(The Chronicles of England, Scotland, and Ireland)』に題材を求めております。ラファエル・ホリンシェッド(Raphael Holinshed)が編纂したこの本は一五七七年に初版が刊行されたのですが、当時かなり読まれていたらしく、八七年には増補版が出版されています。四大悲劇の一つで、一一世紀のスコットランドを舞台にした『マクベス』も例外ではありません。ただ、シェークスピアはかなり脚色しています。『年代記』のスコットランドに関する記述は、ヘクター・ボース(Hector Boece)の『スコットランド史(Scotorum Historiae)』(一五二六)に依拠しております。これによると、ダンカン王は信望の厚い人物ではなく、悪賢い権謀術数家で、逆に、マクベスはバンクォーの助けを借りて王位に就くと、当時としては長期の一〇年間に亘って善政を行っているのであります。両者の人物像は、むしろ、正反対と言えましょう。野心家の妻を持ったドンワルドによるマグダフ王殺しという『年代記』の別の話をそれと結びつけ、さらにさまざまな挿話を加えてできたのが『マクベス』というわけなのです。『マクベス』が歴史的な事実と異なっているからと言って、その芸術的価値を下げるわけではありますまい。
 福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』において、演戯に関して次のように述べております。
 演戯によって、ひとは日常性を拒絶する。日常的な現実は私たちを自分の平面に引き倒そうとして、つねに寝わざをしかけてくるからだ。私たちはそれに負けまいとする。あくまで地上に、しゃんと立っていようとする。そのための現実拒否なのだが、それは現実からの逃避ではない。逃避したのでは、私たちは現実の上に立てない。現実を足場とし材料として、それを最大限に利用しなければならぬのだ。現実と交わるというのは、そういうことである。私たちの意識は、現実に足をさらわれぬように、たえず緊張していなければならぬと同時に、さらに、それを突き放して立ちあがれる「特権的状態」の到来を、つねに待ち設けていなければならない。
 ただ現実を再現することが演戯ではありません。もしそうなら、マクベスを演じられるのはオーソン・ウェルズやジョン・フィンチではなく、ニコラエ・チャウシェスクやソロボダン・ミロシェヴィチのような独裁的な政治家だけになるでしょう。演戯は日常性を拒絶するものだとしても、「現実からの頭皮」でもないのです。いい演戯は日常性と非日常性の拮抗から生まれるのであります。
 このような意見を持つ福田恆存自身、戦後の言論界において、こうした演戯をし続けたと言えますまいか。「さっき言ったように芝居ばかりでなく、小説でも、これはお話ですよ、物語ですよというふうに進めてゆくべきじゃないか。そういう時代があったのです。ドン・キホーテ、ボッカチオはもちろん十八世紀ぐらいまでの小説はそうだった。それが十九世紀になると、今やわれわれが人生の真実を描いた、それのみで小説がなりたつというふうに思いはじめた。しかし、十九世紀の小説家でも一流の人、たとえばドストエフスキーやトルストイをよく読んでごらんなさい。これはお話ですよ、お話ですよという語り口でやっている。その語り口が水引に相当する。その水引きをどっかに忘れてきちゃったんじゃないでしょうか。すべての小説がそうだというのじゃなくて、現代の作家でもそれを心がけている人もいるでしょうが。読者もそれを忘れかけていやしないだろうか。批評家もですね」(福田恆存『今までだれも知らなかったことだ』)。
 柄谷行人は、一九九四年に福田恆存が亡くなった際、『平衡感覚――福田恆存を悼んで』において、一九一二年東京生まれの批評家の異議を次のように要約しております。
 平野謙がどこかで、小林秀雄が「文學界」を始めたとき人民戦線を考えていたのでないかと述べていた。人民戦線と呼ぶべきかどうかは別として、小林秀雄が左翼崩壊後に左翼擁護の立場にまわったことは確実である。そのことは彼が「文學界」同人に中野重治や林達夫を強く誘ったことからも、また彼の「私小説論」や「芸術と実生活」といった評論からも明らかである。また、「戸坂潤氏へ」というエッセイには、そのことが端的に書かれている。彼は戸坂潤らが作った「唯物論研究会」に入っていたのである。小林を「伝統主義者、復古主義者、日本主義者」と断罪する戸坂の批評に対して、彼はこう述べる。《屁理屈は抜きにして、それより僕は唯物論研究会のメンバーであるから、さつさと除名したがよかろう》。 
 僕は自ら進んで唯物論研究会に入会したのではない、再三勧誘を受けて加入を承諾したのである。その時僕の名前でも利用の価値があるならどういふ風にでも利用して欲しいと岡邦雄氏に明言した。それを、小林秀雄が現代文化を毒する危険人物である位の事はとうの昔から承知してゐたなぞといふような事をいはれては馬鹿々々しくつて腹も立たぬ。(「報知新聞」一九三七年一月二八日・『小林秀雄全集』第四巻所収) 
 
 戸坂潤が小林秀雄を攻撃したのは、小林が彼に好意的だったからである。孤立した者が最も理解してくれる者に八つ当たりするという感じがある。小林は「腹も立たぬ」と言うが、こうしたことが続くたびに熱意を失ったことは疑いがない。以後、小林が「無常といふ事」のような地点に向かうのは、たんに情勢のせいではない。私は、戸坂潤は優秀な哲学者だったが、同時に愚かな実践家だったと思わざるをえない。ところが、こうした事柄はほとんど忘れられている。左翼は小林を否定するし、保守派は小林がそのようにふるまったことを見たくもないからである。 
 今更に思うのは、小林秀雄がもっていた「平衡感覚」である。むろん、それはいわゆるバランス感覚というようなものではない。「僕の名前でも利用の価値があるならどういふ風にでも利用して欲しい」と言うのは、この時点では相当な覚悟を要したはずなのだ。私がここで「平衡感覚」という言葉を使いたくなったのは、福田恆存の『平衡感覚』(一九四七年刊)という本を読んだためである。 
 たとえば、「批評精神」と題するエッセイで、福田はクリティカルという語には、批評的=批判的というほかに、臨界的という意味があることを強調する。たとえば、臨界角度とは、それ以上傾斜すれば物がすべり落ちてしまうような角度のことである。そして、彼はこう言っている。 
 批評精神とは――もつともすぐれた批評精神とは――おなじ平面上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神のことであること、いふまでもない。それは公約数的な臨界角度を持たずに、水平面との一度、一分、一秒の斜角をも鋭敏にかぎつける精神でなければならぬ。のみならず、それは文字どほり平地に波乱をさへおこしかねない。もちろん、かれもまた安定と平穏とを愛するであらう。いや、なんぴとにもましてもつとも安定と平穏とを愛するがゆゑに、現実のあらゆる安定と平穏とを拒否するのだ。(一九四九年・『福田恆存全集』第二巻所収) 
 
 「平衡感覚」とは、平衡を保とうとすることであるよりも先ず、平衡が壊れる危機的=臨界点を察知する感覚のことである。しかし、このような言い方だけでは、福田恆存の臨界的=批評性がどのようなものかはわからない。実際、戦後の福田に批評が「平地に波乱をおこす」ものであったことは確かであるが、それすらも福田恆存の「平衡感覚」の本領を示すものではない。
*
  私は今年の一〇月に久野収にインタビューしたとき、戦争期の福田恆存について尋ねた(第二期『批評空間』四号参照)。それは、数学者の森毅が戦争中の福田恆存はすばらしかったという回想をどこかで書いていたことがずっと気になっていたからだ。久野収によれば、福田恆存は自由主義者というよりも、むしろニュー・ディール系左派であったようである。戦後の福田はそのことを一切語らなかった。『全集』の「覚書」でも、それに触れていない。ただ、平野謙に情報局の後任として勧められたとき断わったことや、戦後に彼の最初の本『作家の態度』が林達夫の称揚によって出版されたことが書かれているのを見れば、戦争中の福田恆存の姿勢をある程度推測することができる。
 戦後に戦争責任を追及する左翼に対して、彼は次のように書いている。 
 戦争中、時流に乗じて国民を戦争にかりたてた作家たちのゐたことは事実であり、かれらに対してぼくたちは憎悪と軽蔑をもつて酬いた。が、すくなくともぼくに関するかぎり、この憎悪と軽蔑とをたゞちに戦争責任といふやうなことばにすりかへようとはおもはぬ。その狂態がいかに常規を逸してゐようとも、またじゞつ、敗戦の責任を負ふべきものであつたにせよ、ぼくがかれらを軽蔑するのは、かれらが戦争、ないしは敗戦に責任があつたからではなく、文学者として無資格だつたからにほかならない。 
 こゝに節操といふことが問題になる。もし今度の戦争において節操といはれるものが存在しえたとするならば、それはいつたいどのやうな面に見られるのであらうか――ぼくはそこのところをあへて問ひたゞしたいのである。文学者の戦争責任を糾弾するものが多かれ少なかれこの節操を保持してきたひとたちであり、その実績を背景としてものをいつてゐる。が、ぼくはそれら一切を信じない。かれらの表明する節操にうしろぐらいものがあるといふのではない。すでにいつたやうに、ぼくはうしろぐらさを余儀なかつたものとして認めてゐる。たゞ不愉快なのはかれらの論理である。かれらも自分たちの卑劣と無力をみとめ、それを厳しい自己批判の方向に好転せしめ、さうすることによつて民主主義革命に参与する資格をかちえるものとしてゐる。かれらといはゆる戦犯作家との差異はその自己批判の有無によつて決せられるといふのであらうか。ぼくはさうした論理に、なによりも反撥を感じる。(「文学と戦争責任」) 
 
 いうまでもなく、福田恆存は自らの抵抗や節操について語りえたはずである。だが、そうはしなかった。というよりもむしろ、彼のなかに「うしろぐらさ」がなかったがゆえに、他人を攻撃することができなかったというべきであろう。逆に、彼は根っからの保守反動という非難を浴び、しかもそれに対して一切弁明しなかったのである。しかし、この福田恆存のエッセイによって、自己弁護する保守派がいたとしたら、それほど滑稽なこともない。 
 戦後左翼(戦後急に左翼になった者)や戦後民主主義者(戦後急に民主主義者になった者)の出現において、福田は別の臨界=危機点を見いだした。それは戦争中に支配的であったものと本質的にちがわない。事実、「自己批判」しただけで、根は同じ人たちなのである。しかし、福田恆存はべつに「反共」として語ったのではない。
たとえば、今読んでみると、どきっとするような表現がある。 
 ぼくはコムミュニズムを信ずるが、その文化活動を信じない。といふよりは、その文化主義的傾向を断ちきったコムミュニズムしか信じられないのである。日本共産党は民主主義文学理論家と手を切るにしくはない。さういつたからとて、プロレタリア革命の陣営を画策するなどと、まさか被害妄想もそこまでひどくはなからう。(「白く塗りたる墓」一九四八年・『全集』第二巻所収)) 
 
 一九六〇年代に共産党が文学者の多くを除名したとき、福田恆存は「日本共産党礼讃」という論文を書いた。その時、私はこのレトリックにあまり冴えがないと感じた覚えがある。というのも、党の最高指導者が文芸批評家だったからだ。しかし、今思えば、彼はそれより二〇年前から同じことを言っていたわけである。 
 私が福田恆存を最初に読んだのは一九六〇年の秋であったが、自分と政治的立場が違うにもかかわらず、何の違和感も覚えなかった。たとえば、私はひとが福田の「平和論への疑問」になぜ反撥しているのかわからなかった。それは平和運動に対する反対論ではないし、福田の言うことに完全に同意しながらでも平和運動は可能なのである。福田恆存が死んで悼むのはたぶん保守派ばかりであろう。しかし、彼がもっていたような臨界的=批評的精神はそこにはないということができる。
 この柄谷行人の批評は、保守派と違い、最も示唆に富む福田恆存論の一つであります。彼は、戦争中、石橋湛山や坂口安吾といった作家同様に、「すばらしかった」のであります。けれども、「ニュー・ディール系左派」だった過去に基づいて、文学者の「戦争責任」を追及することを彼は決してしません。そこには「演戯」がないからです。劇化しなければ、「自我」もありません。「自我」は「演戯」によって事後的に見出されるものです。と言うよりも、いかなる「演戯」をするか自身が「自我」なのであります。が、福田恆存は自己劇化する「うしろぐらさ」を持っておりません。彼はそれを求めて保守化していったと言えますまいか。軍国主義者だった経歴を清算し、劇的に、民主主義者に生まれ変わる必要など彼にはありません。自尊心を回復するために自己劇化しているわけではないのです。自己劇化は精神の「危機」に対処するときに行われるのであります。
 坂口安吾は、小林秀雄との対談『伝統と反逆』において、戦後になって知った福田恆存を次のように評価しております。
安吾 福田恆存に会った? 小林秀雄の跡取りは福田恆存という奴だ。これは偉いよ。
小林 福田恆存という人は一ぺん何かの用で家へ來たことがある。あんたという人は実に邪魔になる人だと言っていた。
安吾 あいつは立派だな。小林秀雄から脱出するのを、もっぱら心掛けたようだ。
小林 福田という人は痩せた、鳥みたいな人でね。いい人相をしている。良心を持った鳥のような感じだ。
安吾 あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は。
 安吾は、花田清輝同様、福田恆存も高く認めています。彼は、『花田清輝論』の中で、福田恆存が自分を「無茶苦茶にヤッツケている文章」を読んだ際に、「生き方に筋が通っているのだから」、「腹が立たなかった」と言い、「傑れた評論家」と呼んでおります。安吾はまるで五〇年代を予言していたようであります。
 福田恆存は「戦後左翼」や「戦後民主主義者」に自己劇化ではなく、自己欺瞞を見出したのであります。彼らは「自己批判」して、それをしないものを糾弾します。が、その精神構造自身は何一つ変わっていないのです。戦前と同様、ただ時流に乗っているだけであります。彼はそんな風潮に危機を覚えたのです。
 が、この日本文化会議理事に依拠して、フリードリヒ・ニーチェやD・H・ロレンス、T・S・エリオットといった西洋人による西洋近代文明の自己批判を援用して西洋文明を糾弾する厚顔無恥さ同様、いわゆる戦後の進歩派知識人を攻撃する保守派は真に「滑稽」でありましょう。彼らは「うしろぐらさ」さえ感じていないからであります。「節操」のなさは戦後民主主義者と同じです。福田恆存は反共産主義者として左派を批判しているわけではないのですから。
 柄谷行人が言及している福田恆存は『平和論にたいする疑問』は、その挑戦的な内容で、激しい議論を引き起こしております。支配的な平和論が「もし第三次世界大戦が起きたら」というような条件節で駆られていることを批判し、核兵器で世界全体が滅んでしまうのなら、そこに恐怖などないと主張しています。これはただ現実を言い当てているだけで、「平和運動に対する反対論ではないし、福田の言うことに完全に同意しながらでも平和運動は可能」であります。どうせ人間いつかは死ぬのだから、何もしようがしまいが同じだとはなりません。
 けれども、今日、核兵器への不安は、東西冷戦構造当時と違い、国家による使用から、多方面に拡散しております。核の脅威は世界全体の破滅と言うよりも、小型核爆弾が大都市でテロに用いられるなど限定的な危機へと変容しています。核の均衡論がまかり通ったように、東西冷戦構造は大きな平衡状態を保ち続け、福田恆存のレトリックも冴えていましたが、アメリカだけが超大国として残り、世界は非平衡状態にありましては、それも有効ではありません。また、英語の「クリティカル(critical)」は二つの名詞の形容詞を兼ねております。一つは「批評」や「批判」を指す「クリティク(critic)」であり、もう一つは、「危機」や「運命の分かれ目」を意味する「クライシス(crisis)」であります。「臨界」は後者に属します。原子核分裂の連鎖反応が始まる直前が臨界であり、合衆国は臨界前核実験を開発し、包括的核実験禁止条約の抜け道になっております。「おなじ平面上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神」は別のレトリックが必要なのであります。核テロを防ぐ手段は今の合衆国にはないのであります。湾岸戦争でアメリカ空軍を指揮したチャールズ・ホーナーは、二〇〇五年八月九日付『朝日新聞夕刊』の吉田文彦の「核テロの不安」によると、「ハイテク兵器で他を圧倒する米国を破滅させるものは、核兵器だけだ。核廃絶によってこの可能性をゼロにする方が米国にとってプラスになる。核は『使えない兵器』であり、通常兵器による安全保障が現実的な選択だ」と言っております。この主張の方が現代的でありましょう。
 こうした時代において、むしろ、「非平衡感覚」を持たねばなるまいし、福田恆存を読む意義はその非平衡性=非線形を踏まえた「臨界」にあるでありますまいか。「批評的」=「臨界的」は依然として古びておりませぬ。彼は線形的な認識の時代を生きておりましたけれども、非線形によって読むことができるのであります。と申しますのも、彼は素朴な二項対立ではなく、複雑な「バランスで生きた人」だからです。「なんぴとにもましてもつとも安定と平穏とを愛するがゆゑに、現実のあらゆる安定と平穏とを拒否するのだ」と彼は書きましたが、非平衡の現実の方に「安定と平穏」がない以上、「臨界」を自己組織化論から捉え直すべきであります。
 福田恆存の「平衡感覚」、すなわちわれらの「非平衡感覚」は「カオスの縁」を探ることです。それは秩序立った線形現象から非線形現象へと移行する境、すなわちコスモスとカオスの臨界点であります。自然は安定状態を保つため、自らに変化を与えております。多数の要素が複雑に相互佐用するような系では、それは臨界状態に移行し、系自体によってその過程が起こされるのです。これが「自己組織的臨界現象(SOC: Self-Organized
Criticality)」であります。相互作用のある複雑な系は臨界状態へと自己を組織化するのです。自己組織化における「自己」は、都甲潔=江崎秀=林健司の『自己組織化とは何か』によると、「構成要素と、その結果ででき上がる秩序ある構造」であります。臨界状態にあるとき、初期値敏感性があり、連鎖反応を起こし、系の無限個の要素にも影響を及ぼします。雪崩や地震、株式市場の暴落、パニックはその典型例であります。自己組織化臨界現象は複雑さを生み出すのであります。アリジゴクはこの現象を利用して餌を採っております。この昆虫は巣穴の状態を臨界状態に保っています。蟻がうっかりそこにはまってしまうと、いくらもがいても、砂が落ちていくだけで、登ることはできません。自己劇化は自己組織化臨界状態として生じると認識し直すべきであるまいか。臨界状態に達したときに、自己組織化されたものが福田恆存の「自我」であります。
 この読売文学賞受賞者は、『龍を撫でた男』第一幕第三場において、次のような意味深なセリフを書いております。
家則 ぼくは親しいひとがこっちに気づかれずに、ひとりぼんやりしているのを、じっと見ているのが好きなんだよ。
蘭子 なぜ?変な趣味じゃないの。
家則 それあね……、変かもしれないけれどね、とにかくいいもんだよ。きみも一度ためしてごらん、そのひとがますます好きになるから……。
 演戯の基本は、実は、何もしていない状態であります。「こっちに気づかれずに、ひとりぼんやりしている」姿を「じっと見ている」とは意識的には自己劇化していない自己を見つめることでありましょう。それは自己組織化されたものです。これは、むしろ、「ちょっと突っ張り過ぎた」批評自身に対して言えることではありますまいか。彼の批評はそう読まれることがあまりに少なすぎます。「とにかくいいもんだよ。きみも一度ためしてごらん、そのひとがますます好きになるから……」。
 申すまでもなく、藝術とは、精神を通じて、あるいは視覚や聴覚を通じて、精神の最高のいとなみから肉体のあらゆる末梢的なはたらきにいたるまで、心身の全機能の完全な調和をもたらすものであります。文明がその分裂を劃策すればするほど芸術はそれにたえ、それに即応しながら、調和への努力を惜しんではならない。分裂に無関心であってはならぬと同時に、分裂症状に拍車をかけ、あるいはすすんで自己をもそれらの分枝の一たらしめるようなことがあってはならないのです。じつにかんたんな結論でありますが、藝術は趣味であり、一時代の趣味を要請するものであり、論理や倫理の変調を正すものであります。趣味は結果としては、その時代の文明に牽制され、その時代の文明を物語るものであると同時に、もとはといえば、その文明を規正し、われわれを生命の根源に結びつけるものであります。趣味の確立していないところでは、倫理の基準はありえず、科学もまたなにを真としていいかわからない。論理や倫理や情念かあやまつところで、趣味は立ちどまります。真が狂うところで、美は正気を維持します。それは激烈に転廻しているがゆえに静止しているような独楽のようなものだ。論理や情念は転廻しながら同時に静止することはできない。転廻するとすれば、それはあくまで転廻しているだけであり、静止すればただ静止しているだけにすぎない。時間に流されるか、空間に枯死するか、いずれかであります。そして、美とは時間の空間化、空間化された時間を、意味するものにほかなりません。
 われわれはそのために演戯するのではなかったか。たんなる現実の行動は、一見、時間のなかに動いているようにみえて、じつは机のひきだしにしまい忘れたピンのように固定したものであり、同時に、そのピンのように星辰の運行とともに動いているにすぎない。真に時間を経験するために、現実のそとに虚偽の行動を、すなわち演戯をこころみなければならぬのであり、そうすることによってのみ時間ははじめて現実とはべつの次元に真の空間化を得るのだ。その意味において、藝術は人生にとって無用であります。が、そういう藝術もまた人生とともに流されてゆく。矛盾でありましょうか。いや、そうではない──人生もまた、なんの目的ももたぬ無用の存在ではありませんか。
(福田恆存『藝術とは何か』)
〈了〉